感情の話

鴻上尚史『演劇入門』から考えるアイドルという演劇的虚構

 

 

はじめに

これは昨今のアイドル色々、そして大流行したYOASOBIのアイドルから「アイドルは虚像」であり「嘘つき」なものであるという解釈に対し、鴻上尚史の『演劇入門 生きることは演じること』からアイドルを"演劇的虚構"という概念から検討しようと試みた文章である。

 

 

 

意識の共通性

まず第一章『演劇とは何か?』において、鴻上尚史ピーター・ブルックの言葉を用いて

「演出家も劇作家も必要でなく、一人の俳優と一人の観客がいれば演劇は成立する」

と話している。

そしてこの際に重要なのが「フィクションでありながら、受け入れる」という意識の共通性である。

 

ここでは、「行動の目的や動機が虚構であるとわかっていて、同時に、観客も、それをわかっていながら受け入れる」という前提を意識の共通性と呼ぶ。

 

 

これをアイドルに当てはめて考えると、

アイドルという演劇は、アイドル自身と観客(見る側)に「Aはアイドルとして振る舞っている」という意識が共通していれば成立することになる。

 

ここでアイドルは物語上の役柄ではなく実際に存在する人間の職業のため、演劇というフィクションと同様に扱っていいのかという疑問が湧く人もいるだろう。

 

 

 

鴻上尚史によると私たちは一日の中で場に応じて「親の子供」や「クラスメイト」、「新入社員」「生徒」などのようにその場その場で役を選び取り演じているという。

と同時に、見る人(=観客)を想像して振舞っている時点で演劇が成立するとも言う。

 

 

つまり、見る人(=観客)を想像して振舞っているという点において子供やクラスメイト、新入社員などの属性や職業は一種の役柄という虚構になり得る。

 

同時に鴻上尚史演劇的虚構を嘘とは違うと主張する。

なぜならそれらの属性は本体の一部でしかなく、どれもが「本当の自分」であり、かつ真剣に場に応じた役を演じているためである。

 

鴻上尚史は例として走れメロスでは「(役者は)メロスという役を演じながら本気でセリヌンティウスを助けたいと思っているのです。」という。

 

つまり、

あるアイドルAにおいて「ファンの皆さんがいないとこの仕事はできません。」などのセリフについてもアイドルとしてのAの役を演じながら本気で思っている。

と同時に、

アイドルという役を演じていない時にファンが鬱陶しい、仕事やめたいだるいと思っているということも両立するのではないか。

 

この意識の共通性というものをアイドルとファン(=観客)が持つことでアイドルとしてのAが成立しうると考えた場合、大きく分けて2つの問題点がある。

第一に、Aがアイドルというものをどのように定義づけているか、つまりアイドルという演劇をどのように解釈して行動しているか、である。

 

意識の共通性という言葉を用いてアイドル的行為を説明する場合、アイドルAを演じるにあたってどのようにA自身がアイドルという行為を解釈し、意識を持っているのかが観客と一致しなければ意識の共通性は発生しない。

 

昨今の推し活バブルにおいて、アイドルひとりにつきオタクひとりなんてことは少なくとも地上では起こりづらい(通いの熱心なオタクは1名などの事案は発生しうるが……)ため基本的には1対多数になる。

この場合あくまでアイドルとしての意識がファン全員と完全に共通するということはほぼ有り得ないだろう。

 

ファン同士においても個々人によって姿勢が全く違うため、例えば恋愛禁止なのか、モラルのない行動とは何なのか、ステージに立つ時ふざけないで欲しい、などそういった細かい部分において意識が共通することはまずない。

そういった意味でアイドルAと観客は一対多数に見えて、観客から見た場合その関係性は個々人に依存したものになり、一対一であるとも言える。

 

 

次に、アイドルという演劇(舞台)がどこまで影響しているのか。

これについてもファン側の認識は様々だろう。

あくまで仕事中のみなのか、それとも仕事が終わってからも常に舞台の上に居続けアイドルを演じていると考えているのか。

例えば、スキャンダルが週刊誌やSNSによって暴かれたりすると後者の"仕事が終わってからも常に舞台の上に居続けている"という意識を持っているファンはアイドルであるAに怒りなど感情を向けやすい。

 

ただ芸能以外の職業で休みの日や終業後も仕事の意識を持って取り組んでいる人というのは少ないだろう。少なくとも私は休日は仕事のことを1ミリも思い出したくないし意識は持たない。

 

ではなぜアイドルは"仕事が終わってからも常に舞台の上に居続けている"のが当然であるという意識を持たれるのだろうか。

 

この答えとして

一般的な自分の生命維持や社会参加のために金銭を得る仕事と違い、アイドルという職業は"自分自身がやりたいこと"や"趣味の延長線"だと見なされるため、休日も舞台の上にたち続けること(アイドルという意識を持ち続けること)に対してあくまで職務上の努力として当然であると考えられることが多い。

 

この考えについて、例えば上岡(2023)*1はアイドルは情熱ややる気を他人に示すことで成り立つ労働であると記している。

 

"たとえば容姿や演技が優れていることや、経済的な資本の大きさによって必ずしも仕事が得られるとは限らず、また仕事の結果、成功といえる結果を手にするか否かも、ある程度は偶然に困るところが大きい。こうした僥倖にめぐり合うまでには他者に示す。目に見える「情熱」が必要となるのである。"

また、こうも書いている。

"その情熱は感情管理による生産物であり、演技でもある。"

 

つまり、アイドルは仕事として成立する要素の一つに「目に見える情熱」が必要であると考えられている。それが演技であろうと、とにかく「目に見える情熱」や「努力」が必要なのだ。そしてその目に見える情熱や努力はステージを降りた(アイドルAという役を演じていない)Aの言動も含まれると考えているファンがいるため、舞台を降りた後の言動もアイドルとしての評価にかかわってくることがある。

ただアイドルはそもそも”演じている”瞬間とその人個人の無意識下の言動の隙間を楽しむものでもある。そういった意味で情熱や努力から外れたものでもある程度その人個人の言動として想定されるものであれば受け入れられることもある。

 

アイドルとファンは一対多数に見えてファン側から見ると一対一の演劇である。

人によってAがアイドルAを演じなくなったと思う瞬間も観劇をやめる瞬間も違う。Aからしたら1人の観客がいなくなったところで舞台でアイドルAを演じ続けなければならないことに変わりはないだろう。ただその瞬間に意識の共通性が維持されなくなるので、アイドルAという演劇が一つ終わることになる。

ただ、AがアイドルAの役柄を演じているからといってアイドルAが”嘘つき”なのかといわれたらそういったわけではない。アイドルAの役柄はあくまでAの一部であり、ロミオを演じているときジュリエットに恋しているのと同じように、Aという演劇的虚構はAがアイドルAを演じるうえでの実際の感情がのっている。

 

だからこそ私はアイドルを”嘘”であり”虚像”であると解釈することには反対したい。

 

 

 

*1:消費と労働の文化社会学
やりがい搾取以降の「批判」を考える より

消費と労働の文化社会学 - 株式会社ナカニシヤ出版